蔭木達也のウェブサイト
過去のつぶやき
- 2025年7月22日
- 参政党の躍進について、それにより「排外主義の動きが日本社会で大々的に高まっているわけではない」(中北浩爾、朝日新聞インタビュー)というのは、有識者のおおむね同意するところだと思う。しかし一部で、ヨーロッパと同じ極右政党の台頭だ、と先走った議論がみられる。たしかに各党が選挙戦術上欧州での状況を参考にしている部分はあるだろう。しかしだからといって、有権者も欧州を真似て変わったというわけではない。欧州には欧州固有の社会状況があり、それが欧州に一つの傾向を生み出しているが、日本は大西洋に浮かんでいるわけではない。朝日新聞の記事で、参政党候補が排外主義的な主張を強めたのは、反差別のプラカードを持って演説に押しかけた人々が目立ってからのことだ、とレポートされている通り、現実を見ずに教条的な論理に基づいて運動を仕掛ける人々への反発が、排外主義をむしろ増長させているという事実に、真摯に向き合うべきだ。移民は怖いから早めに排外主義を強めようと煽る、ヨーロッパの現実を知ると自称する右派「出羽守」と、自国民の権利を守れという主張はヨーロッパの極右と同じ排外主義だから、はやめに断固批判しようというと訴える、ヨーロッパの知識を学んだと自称する左派「出羽守」のあいだで、そのどちらにも興味を持たずに日々真面目に働いている人が、余暇を楽しむのに十分な所得を得られずスマホの動画で時間を潰さざるを得なくなっている現状がある。現場を持っている人が運動するのはよいとおもうが、企業や大学などで安穏と暮らしているインテリ連中は、適当なことをいう前に、生活で苦しんでいる30代40代の人々と交流したらどうかと思う。女性だからといって賃金が差別されない同一賃金同一労働が実現してこそ、夫婦別姓の議論も受け入れられやすくなろうし、企業に対する非正規労働者などの権利保護の法制が徹底すれば、移民も含めた自由な働き方への抵抗も減るだろう。これらは財政出動ではなく法律の話だ。配るほどお金があるというなら、公教育への支出を増やし、高等教育を無償化すれば、日本人が教育を受ける機会が広がり、日本の大学が他国で日本人よりよい教育環境で学んできた留学生に依存するような状況も改善されるだろう。変えるべきはそうした下部構造であり、排外主義は結果論だ。参政党の支持は男性ばかりだというが、朝日新聞の記事に小さく、東京では10代と30代の女性の最多投票先も参政党だったと書いてあった。こういうことに注目しなければいけないと思う。次の総選挙の争点が非正規労働者の権利保護や大企業の労働分配率の上昇などになり、まかり間違っても憲法改正などにならないことを願う。
- 2025年7月4日
- 選挙が近づいてくると、知識人ぶって政治談義をしたくなってくる。まさに丸山真男のいう亜インテリだなと思う。いつか本当のインテリゲンチャになってみたいものだ——そんなものがあるとすればだが。丸山は民衆を卑下してファシズムの走狗と見做し、それと距離を置いたインテリを真のインテリだと定義したが、それは冷笑を気取る臆病者の謂であって、真のインテリは獄中に仆れたのだ、と丸山を読んだうちのゼミ生が言っていた。今回の選挙で、夫婦別姓と少子化対策は同じことである。男女はどちらでもいいが、尊敬できる相手を選び、その人と身体的に一体化して子供をもうけ、姓を変更して制度的に一体化する。そしてその人を一家を代表する公的な人格とし、家族でそれを支える。そういうあり方を希望する人はとても多い。そういう人にとって、「姓を別にできる」ということ自体が恐怖なのだ。自分は姓を一緒にしたい。しかし相手がそう思わず、別になったらどうしよう。そういう恐怖を味わいたくない。個性の尊重、独立自尊とは言い条、実際には誰かに守ってもらいながら生きていきたいという人も沢山いる。近代以降の日本はずっと、国家に頼るな村で自治せよ、村に頼るな家で独立せよ、そして家に頼るな個人で生きよ、という自由主義的なかけ声と、個人は弱いから家か地域か国か何かを頼らせてくれ、という社会的なかけ声との綱引きだ。頼ってよいことの証しとして、同姓の強制や、「国籍」の特権化といったものを求める人々がいる。そうした声にどう応えるのか? 僕は家族も国家も、自らを縛るものすべてが嫌いだ。一人で自由に色々な人と深い関係をもって生きていきたい。その根底にはニヒリズムとペシミズムがある。だがそんな人間は一握りだ。僕のような人間ばかりでは社会が崩壊する。経済的貧困の中で、国や自治体、家族を頼りたい、そのための証しがほしい、という声に、なぜ左派が応えられないのか? もし本当のインテリゲンチャがそれに応えるすべをもたないなら、宗教家と極右政治家を批判しても詮無いことだ。まずは新聞とバッジを配って歩いたらどうか。というのも、人々が真に求めているのは、その場限りの救済ではなく、未来永劫続く約束であるからだ。それは自分を絶対的特殊的一員として認める、承認の約束である。
- 2025年5月15日
- 革命というのがもはや、歴史上必然に到来すべき社会の全面的変更ではないとすれば、来るべき新社会のため、革命に向けてみな犠牲になって頑張ろう、あるいは犠牲を出してでも革命を貫徹しよう、という主張は同意を得にくい。おそらくエウセビオスが『教会史』を書いた4世紀もそのような雰囲気だったのではないか。必然的に神の裁きが来るのだから喜んで犠牲になろう、という主張を心から信じる人が少なくなってきたからこそ、犠牲者の追悼として歴史を書く必要があった、それが『教会史』のもつある一面であったように思う。顧みれば、マルクス主義の強い影響を受けて以来の近代日本において、「革命」は一つの免罪符ですらあり得たのではないか。「革命」のための抵抗運動や暴動、テロなどは、「革命」のためという論理がその正当性を担保しているかのように感じられたものだ。だからこそ1975年の高倉健演じる『新幹線大爆破』の犯人の動機は妥当なものとされ、2025年のNetflix版『新幹線大爆破』の犯人の動機の描き方に対する評価が低いのではないか。後者をかいつまんで観て、そのレビューをいくつか眺め、そんな感想を抱いた。僕は1975年版の動機も納得できるものではなかったので、どっちもどっちであり、特撮・VFXの激しさとリアルさで十分満足した。それにしても、もう我々は、大量の人の死や多くの犠牲を伴うような社会変革を認めることはできないのだろうか。もしそうだとすると、そういったことがないような穏便な社会変革しか受け入れられないということなのだろうか。あるいは、犠牲は伴わずにしかし人々の格差や生まれつき押し付けられた差別抑圧等をもたらす社会構造を、あっという間にひっくり返したり廃したりできるような方法を、我々は見つけることができるのだろうか。僕は、可能性は絶無に近いとはいえきっと見つけることができると信じるが、これはいわば、現世救済の信仰の問題だろう。すべての人々よ、祝福されてあれ。
- 2025年4月10日
- 僕はリヒテルの弾くラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と、アルゲリッチの弾くショパンの英雄ポロネーズが好きなのだが、この逆、すなわちアルゲリッチがラフマのピアコン2番を、リヒテルが英雄ポロネーズを弾いたのを聴きたかったといつも思う。アルゲリッチは一度だけ弾いたけどそれをなんかディスられて以来、癪に障って弾いてないとかいう話があったと思うが、リヒテルが弾いていないのはなんでなのだろうかね。ピアノは音楽という側面もあるが、ピアノを聴くのはボクシングを観るようなもので、力強く粒の立った演奏が好きだ。変に解釈して技巧を加えているのは好きではない——いや、そうとも限らないが。日本の楽器に比すれば、ピアノは西洋の和太鼓のようなもので、決して箏ではない。とかいって、もっとゆったりしたもの、ラフマでいえばパガニーニの主題による変奏曲の17変奏(18変奏の間違い:6.18追記)のような(これよく使われる曲なのにもっと短い通称がつかないものか)流れるようなものも好きだけれども。いやーいいよな、音楽。音楽はスポーツだし、スポーツは音楽だし、どちらもすごく肉体的で性的だ。音楽をやることは生きる上で人とともに(あるいは孤独であっても、自分自身とともに)充実した瞬間を得ることだろうと思う。不思議だ。とはいえいまの僕自身は、音楽的な営みとはからっきし無縁なのではあるが……。
- 2025年3月31日
- 年度が替わる。日本では、とりわけ公共や教育の業界では、年度の変わり目が縁の切れ目というところがある。新年度になるとまた新しい取引やプロジェクトが始まり、どっと新しいつながりが増えるのに伴って、逆に前年度限りで終わってしまう関係は、もうそれきり生涯切れてしまい、記憶から薄れてしまうことが多い。今年度、もう一度会おうと約束していたが事情で流れてしまい、その後会っていない人が数人いる。気がかりだが、こちらから連絡するのも迷惑かと思って躊躇しているうちに、年度が替わる。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。往くも旅、留まるもまた旅。束の間僕と行き逢って、もう二度と会わない人も、せめてその旅路が安らぎと幸せに充ちたものであるよう、ただ祈るのみ。とはいえ短い人生、遠からずまた会いたいとも思うのだが。明日からまた新たな人との出会いがある。どんな物語が始まるのか、今から楽しみだ。